政府見解「教育勅語、教材としての活用は否定しない」について考えてみた
ハンドメイド品を整理しながら気になっていること、教育勅語のことです。
政府見解はこんな感じ
教育勅語を教材として使用することは否定しない、道徳の教材としてもね。
文科大臣はこんな感じ
教育勅語を、憲法や教育基本法に反しないよう、適切な配慮のもとに教材として活用することには問題ない。歴史学習として活用するには問題ない。
賛成、反対といろいろな見方や感じ方があって当然とは思いますが、私的には違和感が大きくて、だまっていられなくなって書くことにしました。
「勅」語なので天皇のおことば。議会で決定されたものではなく、法を超えている。
大日本帝国憲法には「万世一系の天皇之を統治する」とあり、その天皇が求める国民道徳が教育勅語。内容にみられる特徴のポイントは以下のとおり。
①天皇を神格化した
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ・・・」
②臣民が守り従うべき14の道徳(徳目)を示した。
「・・・爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ・・
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ・・・
斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵守スヘキ所・・」
前半は当たり前な感じですが、「夫婦相和し」は、現在のような対等な関係ではない。後半は、お国のために戦い、滅私奉公する義務が説かれている。(ここがキーポイントだけど、現代人には読みにくいし、わからなさすぎる)
2. 社会科と教育勅語
現在、日本の教育は、憲法や教育基本法に基づいた学習指導要領(文科省)に基づいて行われ、学校は学習指導要領に準拠した検定教科書を使用して授業を行っている。教科書以外の資料を補助教材として活用するのも学校の裁量です。
例えば社会科で、教科書の内容をより理解するために、歴史的資料を教材化する、教育勅語をコピー等して学習するのも一つの活用方法といえます。前向きにとらえるならば、正しい知識を習得し、歴意認識を育てる学習に使用するならOKといえます。
もちろん「適切に活用」しなければなりません。それならば、文科省イチオシのアクティブラーニングを社会科に取り入れたらどうなるのか、資料を読み、自分で考え、判断、表現させる。
例えば・・・・
どうして教育勅語を作ろうとしたのかな?
法律じゃないのにどうして威力があったのか?
福沢諭吉は反対したんだけど、自分だったらどうする?
教育勅語と戦争はどんな関係があったのか調べてみよう
その結果・・・・
天皇を神様扱いするって、マジ非科学的ですね、今はICT社会ですよね
愛国心ってなんですか?お国のために死にたくないです
支配のために都合のよい道徳を押し付けたんですね、ひどい(今もですが)、
だから、政治って嫌い!やっぱスマホ命、人生楽しんだもんがち!
となったりしたら、先生は困ちゃいます。一生懸命やりすぎると偏った不適切な指導となって厳重注意となりかねないでしょう。
「適切」とは、文科省の考える適切であって、先生や子どものためではありません。
実際このような授業をされている先生はいないでしょうし、大学で教職課程を履修したから少し知っているけど、「また文科省がなんか言い出した」と、意外と冷静かもしれない。受け流せるうちはいいけれど、改正教育基本法の徹底、次期学習指導要領への布石としたら、受け流すことはできないはずです。
3.道徳と教育勅語
教育勅語を道徳の教材として活用するとは、どういうことなのか。
この場合、歴史資料としてではなく内容自体を学習することになるので、道徳教育をちゃんと知る必要がありそうです。そこで、戦前・戦後の道徳教育を比べてみました。
その1.戦前の道徳教育と教材
道徳教育は、「修身科」という教科で行われていました。教育勅語ができてからは、修身科で教育勅語の徳目を教えるようになりました。教育勅語は教材ではなく天皇の尊いおことばですから、ランドセルに投げ入れることも、醤油じみをつけることもいけません。その謄本が学校に下賜され、丁重に保管し、学校儀式で奉読したり、御真影を礼拝したりしました。
教育勅語を解釈して教えられる先生もいなかった(超ムズカシイ解説書がたくさん出版されています、哲学書です)ので、教育勅語に沿った国定教科書が作られます。それを読んで講釈するような授業をしていました。偉人伝、武勇伝などで感動させて、みんなも立派な人になりましょうというような授業が行われていたようです。親孝行しなさい、兄弟仲良くという部分だけ読めば違和感なさそうですが、全文を読み、政策意図を知れば、「あれれ?」となります。忠君愛国が教育の中核にあります。昭和にはいると修身だけでなく体育や音楽、すべてに軍国主義が浸透していきました。
日本ヨイ国 キヨイ国 世界ニ一ツノ 神ノ国
国民学校初等科 1・2学年用 修身教科書 「ヨイコドモ 下」昭和16 より
今、日本人の道徳意識は世界から高く評価されています。でもそれは教育勅語のおかげではなくて、長い年月をかけて日本人が育んできた心だと思います。政治がそれを利用したのが教育勅語です。
戦争という事情があるにせよ、NOが言えない、意見を言えない、やはりこれは人間としての自由を侵害する教育で、本当の教育ではありません。教育、道徳の前提は、何よりも意志の自由です。(カントさんはすごいことを発見してくれました。)
その2 . 現在の道徳教育と教材
教育勅語が果たした役割を考えたならば、今それを「道徳の教材として使用することを否定しない」とう真意はどこにあるのでしょうか。文科省の自己矛盾さえ感じます。
なぜならば、平成30、31年から完全実施される「特別の教科 道徳」の目指すものと真逆をいっているからです(今までの小・中学校の道徳の時間が、特別の教科道徳となります)。
新しい道徳教育は、特定の価値を押し付けるのではなく、「考え、議論する」道徳を目指し、検定教科書を中心して多様な資料を活用することになっていて、指導方法の工夫が求められています。私見ですが、目標も以前のものよりもわかりやすく改善されていると思います。
*これです
「特別の教科 道徳」(道徳科)の目標 H27年3月 中学校学習須藤要領よ
第1章総則の第1の2に示す道徳教育の目標に基づき,よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため,道徳的諸価値についての理解を基に,自己を見つめ,物事を広い視野から多面的・多角的に考え,人間としての生き方についての考えを深める学習を通して,道徳的な判断力,心情,実践意欲と態度を育てる。
道徳授業で、教育勅語を教材として活用するとすれば、例えば、ただ読み上げて「ごもっともです、僕も私も親を大切にします」「友達を大切にします、もういじめはしません」といわせるの?教育勅語は美しい日本の伝統文化ですといって朗読するのでしょうか?教育勅語はヘンだ、といったら評価が下がるかもしれないから意見はいえないです。それで、判断力が育つとは思えませんし、道徳教育ではありません。学校が自作資料を作成するのでしょうか?全校朝礼とか入卒式とかで朗読、暗記させて、道徳教育をするのでしょうか。そんなことを望んでいる先生はいないはずです。現天皇陛下も。。
やっぱりおかしい。政府の見解が正しいなら、学習指導要領はウソということになります。そう感じている私はおバカさんなのか。すでに失効している内容・文言をどう解釈するの?グローバル社会風に再解釈して下さいとでもいうのでしょうか、自爆です。
子どもには学ぶ権利があります。先生の仕事は、ただ知識や技術を教えるだけでなく、何が正しいか正しくないのか考え、判断できるよう導くことです。それが、先生のやりがい、喜びではないでしょうか。ウソやごまかしはいけません。NOです。
教育勅語を道徳の教材として使用してもいいというなら、文科省こそモラルが問われます、道徳を勉強してくださいませ。天下り問題、何とかしてください。
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ちょっとテンションあがって、眼もショボショボです(疲)
PVさえないこのブログに時間を割いてる自分は、いったいなんなのさ~
♪走れよ 明日に向かって
泣くなよ 傷ついても
信じろ 君のためなら
俺は闘う 闘う~
人の心を動かすのは人、 秀樹さんの秋のソロコンサート、いきます!
今日はこの辺で。
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